42.本

        風月様作


 あぁ、空はどこまでも蒼い。
 昼下がりの学校の屋上。始業のチャイムが鳴り響き、生徒たちの賑やかな喧騒も少しすると収まった。静けさと日の光に満たされた屋上に、健やかな寝息が響いている。そのかすかな音は、風に乗って空に溶けた。
 眠っているのは、私ではない。私のご主人様だ。ご主人様は昼休みの終わりごろからここに寝転び、あろうことか私を枕にして寝始めた。
 そう、私は本である。
 しかも、ただの本ではない。
 魔本である。
 魔力の宿った本なのである。
 もちろん喋る。自力で移動もする。さらにいえば寝ることだってあるのである。
 なのに、なのに私のご主人様と来たら、私をとても酷く扱うのである。
 私は本だ。魔本だ。召使いではない。自らより弱いものには決して従わない、誇り高き魔本なのである。
 ところがだ。私の魔力をもしのぐ力の持ち主である私のご主人様は、初めて会った時になど、私をその小汚い靴で足蹴にしやがった。
 ちなみに未だに時々踏まれている。実に口惜しい事この上ない。
「ふぁぁ……おい本、今何時だ」
 おっと、思わず怒りのオーラを出してしまったらしい。ご主人様が起きた。相変らず態度が偉そうだ。初めて会ったときからこうだった。
 だが、私も一応魔本である。大人のひろーい心の持ち主なのである。だから私は、律儀に答えた。
「もう既に五時間目がはじまっております」
 ご主人様は眠たげに頭を掻き毟ると、私を拾って立ち上がった。
「うーんよし、安土屋のあんみつ食いに行くか……
 主人はそう言うと、ぽてぽてとなんともやる気のなさそうな足取りで、フェンスの方へと向かう。
「あの、ご主人様、僭越ながら申し上げますが
「僭越だと思うなら言うな」
「では申し上げますが、授業の方には出なくてもよろしいので?」
 もう既に、授業は開始されているのだが。
 ご主人様はフェンスに手をかけて、自信たっぷりににやりと笑った。
「いーんだよ、なんてったって俺天才だし」
………
 私は言葉も出ない。どこをどうすればコレだけ傲岸不遜になれるのであろう。
 だが実際、ご主人様は天才だと認めざるを得ない私だった。
 なんといっても、今の婦女子共が一同に騒ぎ立てるほどのルックス、そして、猫を被った時の爽やかな性格。運動神経は右に出るものがいなく、勉強だっていつも試験は学年一位だ。
 更にその上、この世界の者たちに馴染みは無いが、魔力だってずば抜けている。
 一体神は何を基準に能力を配分しているのだろうか。元からあのジジイは嫌いだが、本気で殴りに行きたくなる。手がないので殴れないが。
「何、一人でぶつぶつ言ってんだ、本。落とすぞ」
 ご主人様は言葉どおりに私をフェンスの向こうに放り投げ、自らもそこに飛び込んだ。
 魔力を展開し重力を相殺。四階から飛んだにも関らず、ご主人様は何事もなかったかのようにふわりと着地する。
 よりによって私の上に。
「足が滑ったあー汚ぇもん踏んじまったぜ」
 踏んでおいてそのセリフか。
 私は思わずかっとなって声を荒げた。
「汚いとは失礼な。私は魔本だ、高貴なのだ。それを汚いなどと……
「安土屋安土屋〜」
 歌うような声が遠い。
 ご主人様はあろうことか、私を置いてさっさと歩いていってしまっていた。
「!!??」
 私は声も出ない。
「何してんだ本、置いてくぞ」
 ご主人様は何事も無かったかのようにさっさと歩いていく。
 私は一つ溜め息をついて、ご主人様の下へと漂っていった。
 まったく、私は魔本なのに。それらしい使われ方を一度もされていない。
 ご主人様ほどの者であれば、世界を滅ぼすことすら可能なのに。
 前に一度、それを進言したことだってある。
 世界を手中に治めたくはないのか、望みはないのか、と。
 その時ご主人様は、はん、と軽く、私の真剣な言葉を笑い飛ばした。
『アホだなお前。今だって充分世界は俺中心だからこれでいーんだよ。こんな天才で完璧な俺様が魔本持ってて、さらに最強になっちまったら世の中不公平だからな。だからお前はただの【本】で充分だよ』
 私の存在意義を否定された気がして、そのときはものすごく怒ったのだが、最近はなんとなくわかってきた気がする。
 あぁ、空はどこまでも蒼い。永遠に変わらないであろうその空の下を、私のご主人様はどこまでも孤高に歩いて行く。
天才というのも、寂しいものだな」
 私は呟いて、ご主人様の隣に並んだ。
 私は魔本。純粋な魔力の統率者に、従う物。支える物。
 だから私は、貴殿の力に、支えになろう――
「何しんみりオーラ出してるんだよ」
 ご主人様が私の表紙を小突いた。私はばさばさと自らの体を揺さ振って、なんでもないという動作をする。
「いえ、ご主人様はお強いと改めて実感していたところです」
 ご主人様は珍しく驚いたような顔をして――少し照れたように笑った。
「いきなりだな今日はやけに素直じゃないか」
 それだといつも、私が素直では無いと言っているように聞こえる。
 私がちょっと心のうちで怒っていると、ご主人様は苦笑を浮かべて私を手に取った。
「そうそう、それでいいんだ。お前は怒ってないとどーもしっくり来ない」
 ご主人様はけたけたと笑いながら、私を鞄の中に放り入れた。
 まったく、ご主人様はどこまでも私に対して失礼だ。
 それはきっとこの蒼い空のように、いつまでも変わらないのであろう。
 鞄の中でそう考えながら、私はひとつ溜め息をついた。