病気



  房藤空木 (ふさふじうつぎ )がそれに気づいたのは暖かいお昼休みのことだった。
 高校の一角にある温室。そこには色とりどりの花が咲き乱れている。園芸部員が丹精込めて育てているお陰もあり、花たちは美しさを保っていた。しかし、その中の一つが、周りとは少し違う。空木は奥で雑草取りをしている部長を呼んだ。
「部長、この子の様子がおかしいんですが」
「え?」
 空木の言葉に疑問を感じた部長は雑草を片手に歩いてきた。そして、空木が見つけたその子をみて、表情を一変させた。
「やだ、この子、ウイルスに感染してるじゃない!」
 部長の叫びに、部員の視線が集まった。ガラス張りの温室に、一瞬緊張が走った。
海棠 (かいどう )先輩、このチューリップ病気なんですか?」
 近くにいた一年生が部長の海棠 (あき )に問う。秋は苦笑しながら新入部員に説明した。
「あぁ。よく見てみな。この子だけ、ほかのチューリップと比べ花びらに斑点があるだろ。この品種ではこんな斑点つくはずないんだ。あと、ほら、ここの方から枯れてきているのがわかる?」
 そういって、感染しているチューリップに触れた。葉は巻縮し、先端が変色して枯れている。患部をみている新入部員も、そうですね。と頷いた。
「発病しちゃったらもう手遅れなんだ。防除はできない。かわいそうだけど、この子はもう生きられないよ」
 チューリップの根本をつかみ、引き抜いた。土に埋まったいた球根が露わになる。土まみれの大きく肥った立派な球根。ここまで大きくなるのに何年かかったことか。秋は付着した土を丁寧に払い落とした。その光景を見て、空木は心が痛んだ。
「かわいそう」
 抜き取った花が、雑草と一緒にゴミ袋に入れられるとき、そう呟いた。
「TBVは薬の防除できないからな。一度かかっちまったら治らない、不治の病さ。球根も、もうだめだね」
 後ろで同じ園芸部の青木 和尚 (かずたか )が呟いた。空木は和尚の言葉にカチンときたが、否定できなかった。
 TBV(チューリップモザイクウイルス)、モザイク病といわれ、ウイルス病の一種だ。通常はアブラムシなどがTBVに感染したチューリップの葉の汁を吸うことで媒介する。発病したチューリップの球根は保菌株となり、翌年も同じように病気に罹る。対処法がないため、二次災害を防ぐためにも焼却処分か密閉処分しなければならない。
「でも、やっぱり、かわいそうだよ」
 処分する――つまり死ぬこと。
 そう呟く空木の頭を、和尚がぽんぽんと撫でた。
「優しいな、房藤は」
 和尚の行動に驚きながら、ほのかに顔があつくなるのがわかった。不意打ちの、和尚の笑顔は効く。
――頭ぽんぽんするなって言ってるだろ! 身長縮む!」
「いいじゃん縮んでも。身長小さい子はかわいいって言うじゃん」
「そんなの知らないよ! とにかく、あたしの背をこれ以上縮めないの!  和尚 (おしょう )のくせに!」
「オショウ言うな! カズタカだっての!」
「お寺の息子だし、未来のお坊さんだからいいじゃん!」
「オレはうちを継ぐ気さらさらないからいいんだよ〜だ」
「あー! また縮めた〜! こら、待て! 逃げるなー!」
 逃げ足の速い和尚に空木は追いついていけなかった。少し息を切らし、その場に立ち止まった。今度こそ、とっつかまえて仕返ししてやる。そう心の中で誓った。
 ふと、チューリップが植えられている花壇が視界に入った。その花壇にぽっこりと空いた空間。病気のチューリップがいた場所だった。
 ざわり――。空木の胸がにわかにざわめいた。


 それから数日たったある日、空木は突然体調を崩し、病院に搬送された。
 空木は元々身体が弱く、小さい頃は入退院を繰り返していた。医者にも、あまり無理をしてはいけないと言われ続けていたし、空木自身、自分の置かれた状況がよくわかっていたため、無理はしなかった。しかし、年を重ねるごとに空木の体調はよくなり、免疫力もついてきた。
 もう、大丈夫。誰もがそういった。
 しかし、昔の病が完全に快復されたわけではなかった。長い年月をかけて、空木の気づかぬ間に、その病魔は空木の身体を蝕んでいった。
――・・・・・・
 空木は病室の窓から移りゆく景色を眺めていた。
 すっきりとした青空。ふわふわと綿飴みたいな雲がゆっくり流れていく。眼下には住宅地。その街路樹が青々とした新鮮な若葉をつけて、太陽の光を存分に浴びて輝いている。行き交う自動車。笑いあう人々。すべてがキラキラと輝いて見えた。
(いいなぁ)
 うらやましい。みんなきれい。
 将来を夢見て、一生懸命生きる。その日その日を大切にして、精一杯生きる。それがこんなにすてきなものだなんて。
(私も、あの中に入りたかったな・・・)
 医者から病名を申告され、余命も言い渡された。今の空木には、将来なんて、未来なんて見えない。

 ――未来なんて、もうない。

 病室に、看護婦さんが入ってきた。診察の時間だ。点滴、血圧検査、薬・・・・・・。ある程度の処置を施してくれた。
「空木さん、あなたと面会したいって人いるんだけど、大丈夫?」
「・・・・・・え?」
 看護婦さんの言葉に、少しとまどいを感じた。しかし、せっかく来てくれたのだから。と、お願いして面会の許可をもらった。
 そして、面会者が看護婦さんと入れ替わって入ってきた。空木は思いがけない人が来て、驚きを隠せなかった。
「よ、房藤」
「か、和尚くん」
 制服姿の和尚を目の前に、半ば混乱した。和尚を指さし、口をぱくぱくあけて、固まった。
「なんだよ。オレが見舞いに来ちゃ悪いのか?」
「いや、そういうんじゃなくって・・・・・・、って学校は? 今三限じゃない」
「サボってきた」
「んなむちゃくちゃな」
「お前に逢いたかったんだよ」
 空木の頭を軽くたたきながらそういった。空木の体温が一気に急上昇したのは言うまでもない。
「温室からパクってきたやつだけど、花瓶ないな」
 右手に二本のチューリップを携えているのを見かけた。パステルピンクに花弁の先端が少しとがっている「楊貴妃」と、純白の花弁に淡いピンクが縁取られている「初桜」。ともに日本で交配して作られた花である。優しい色合いに、思わず心が安まった。
「花瓶なら下の戸棚に確か・・・・・・
 寝台から降りて、戸棚を調べた。母親が前もって準備してくれていた細長いガラスの花瓶が見つかった。
「お、さんきゅ。じゃ、水入れてくるわ」
 花瓶を受け取り、和尚は奥の洗面台に向かった。
 部屋は個室。一人残された空木はまた寝台に戻った。そして、たたかれた頭に自分の手をのせた。少し余韻がある。心臓も、どきどきしてる。頬も、熱い。
 しかし、これ以上の感情を持ってはいけない。叶わぬ夢だ。あきらめた方が身のためだ。そう、自分に言い聞かせた。
 洗面台から、和尚が戻ってきた。水をこぼさないように、慎重に歩いている。透明な円柱の花瓶と二本のチューリップがとても似合っていた。太陽に照らされて、濡れたところが輝いている。
「な、ブドウ糖ある?」
「は?」
「なければ砂糖でいいけど」
「何に使うの?」
「こいつに」
 指さしたチューリップにどうやら与えるらしい。水に溶かせば、数日は長持ちするそうだ。
 空木は戸棚から角砂糖が入っている袋を取り出し、和尚に渡した。和尚は角砂糖を一つもらうと、それを砕いて花瓶の中に少量入れた。残りは自分の口へいれる。早く水に溶けるよう、チューリップで水をかき回す姿に、空木は言葉を無くした。
「見舞いようの花選ぶの結構苦労したんだぞ。人の目盗んでの収穫は結構スリルあった」
「じゃ、やらなきゃいいじゃん」
「やりたかったんだよ」
 少年のような微笑みに、空木の心臓は高鳴っていた。もう、聞こえてしまうかもしれないくらいに大きく。頭の中ではわかっているのに、身体がいうことをきかない。
 和尚は円イスをがたがた引きずり、空木のすぐ隣に座った。距離は近かすぎず遠すぎず。ほどほどの距離だった。その距離でも、空木は和尚を意識しすぎていた。恥ずかしい。少しでも離れようと思ったが、これ以上動きようがない。
「悪かった」
 突然、和尚が謝ってきた。あまりの展開の早さに、空木の頭は半ば追いついていなかった。きょとんとしている空木を見つめながら、申し訳なさそうに言葉を発する。
「お前病気持ちだったんだろ、そのこと知らなくて。いろいろと無理させたから――その、ごめん」
 さっきまでの威勢はどこへやら。頭を下げる和尚を目の前に、空木は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。和尚のせいじゃない。和尚のせいじゃない。頭の中で同じ言葉が繰り返された。
「和尚くんが悪いんじゃないよ、私も、まさか復活するとは思わなかったし」
「だけど」
「私は平気。うん。大丈夫。だから、もう――謝らなくていいから」
 言葉がだんだん小さくなる。
 和尚は悪くない。悪いのは、
 病気――
 これのせいで、未来は絶たれた。もう、生きてはゆけない。もう、終わる。
「じゃ、退院したら、速攻連絡よこせよ。そしたら」
「いい」
 首を横に振りながら、空木が答えた。
「無理しなくていいよ。ほんと、気持ちだけで充分だよ」
 もう、叶わない。
「房藤?」
「私は、もう、退院なんてできないから、だから無理しなくていいよ」
 もう、逢えない。
「無理なんかしてないさ。っていうか、何であきらめてんだよ」
「あきらめるしかないもん! 私、余命言い渡されたんだよ!」
 もう、和尚と一緒にいることはできない。
 静寂があたりを包んだ。緊迫がさらに空気を重くする。
 え? と和尚の表情が固まった。
 信じられない様子で空木を見ている。
 空木の身体が震える。死を宣告された時はそれほどショックじゃなかったのに、目の前にいる人ともう会えないと気づかされた今、ものすごい恐怖を覚えた。押しつぶされる。耐えきれず、自分を抱きしめる。
「私、治る確率高くないって言われた。だから、もう私に関わらなくていい。私に――
 言葉がだせなくなる。目頭が熱くなる。涙が、滲む。
 怖い――。怖い。
 なにもかも失ってしまう。いやだ。失いたくない。怖い。
 視界にチューリップが入る。
 ウイルスに感染したチューリップ。もうだめだと言われ、引き抜かれ、処分される。今、空木はそのチューリップと同じだ。もうじき、抜かれる運命。
 同じになんてなりたくない。生きたい。
 生にたいする執着が、死の恐怖を増大させる。
「やだ・・・。怖い。やだ、病気なんて――あの、あのチューリップにはなりたくない。や――
 一瞬だった。
 和尚が空木の左腕を強引に掴み、引き寄せ、唇を奪った。
 甘い――。それが角砂糖の甘さと気づくのには数秒かかった。
 互いの唇が離れた。空木はいったい何が起こったのかまるで理解できていない。ただ、ぽかんと身を固めていた。和尚はそんな空木を引き寄せ、自分の腕で包んだ。
 力強く、温かい。そして、とても優しい。
「あきらめるなよ。99%助からないって言われても、なんで残りの1%に目ぇ向けないんだよ。助かる確率1%もあるじゃんか」
 空木の耳元で和尚はなお言う。
「いくらでも愚痴きいてやる。そばにいてやる。一人で抱え込むな。オレを頼っていいから」
 ぐっと、和尚の腕に力が入る。
「怖いときは無理しなくていいから。力を抜いて、泣きたいときは思い切り泣いた方がいい」
・・・・・・――わぁぁぁぁ――――・・・・・・
 泣いた。今まで自分がためていた感情を涙という形ではきだした。自分の腕をほどき、和尚の腕を掴んだ。
 大声で泣いた。廊下に漏れてしまうくらい大きな声で。
 和尚は嗚咽する空木の背中を優しくたたきながら、慰めた。
 大丈夫。オレがいる。心配ないよ。
 なんども、なんども、優しい言葉を空木にかけた。

 どれだけの時間が経っただろう。空木はやっと落ち着きを取り戻した。涙が涸れるまで泣いたようだ。さっきまでの不安な表情がいつの間にか消えていた。
「落ち着いた?」
――うん。大丈夫」
 和尚の腕を少し放して、涙を拭った。目頭が火照っている。
「あぁ〜あ。目が真っ赤だ。もう、どうしよう」
「すっきりしたんだから、いいんじゃない?」
 けろっとした態度で和尚が答える。空木は両手で頬を覆って顔を隠した。
「でも、すっごくぶさいくなんだよ」
「空木はかわいいから、いいんだよ」
 ぴた。と空木の行動が止まった。和尚はそんな空木の動作に疑問を抱いている。
「どうした?」
「いつもの和尚くんじゃない」
「そうか?」
「だって、すっごく優しいし。病気なんじゃない?」
「そうかもなぁ。オレ病気かもな。しかも、不治の病。治らなくてもいけどね」
 空木の頭を軽くたたきながら、和尚は苦笑した。
 どんな病気? と遠慮がちに空木が訊いた。和尚は空木の顔を見て、いたずらっぽく笑って、言った。
「恋の病ってやつだよ」