コウモリキツネさま作「日記」
わたしは自分を探して旅に出る
方位磁石なら持っている
ただ一冊のそれに わたしは飛び込む
この日、わたしは目を覚ました。
不思議なことに、記憶がなかった。
「目を覚ましたかい?」
ひとりの男性が、途方にくれたわたしを見つけた。彼はわたしが記憶喪失であると知ると、実に悲しそうな顔をした。
彼は、まずわたしの名前を教え、それから自分も名乗った。どちらも知らない名前だった。
彼はわたしに、ゆっくりといろんなことを教えてくれた。わたしのことと、彼のことを。特に、わたしのことを、たくさん。
わたしの年齢や、人柄。どんなものが好きだったか嫌いだったか。
わたしと彼は恋人同士で、今はふたりで暮らしている。
そんなあれこれの事実を、彼は優しく、ひとつひとつ話して聞かせてくれたけれど、わたしにはまるで他人のことだった。他人のこと……他人事。言いえて妙な表現だ。
そんな話をしながら、わたしと彼は、家の中を見て回った。見て回ることができる程度には、大きな家だった。
彼とわたしが住んでいるのは、邸宅と称しても差し支えの無いような二階建ての家。わたしが目を覚ました部屋も、それなりに広い部屋だった。といっても、金持ちの家といった感じではなく、家の中は、趣味は良いけれどもシンプルな様子だ。
彼の部屋もダイニングキッチンもリビングも玄関もテラスも廊下も……、わたしには、懐かしくも何ともない、知らない人の知らない家の中だった。
一通り家の中を見て回り、それから最初の、わたしが目を覚ましたわたしの部屋に戻って、彼はわたしに一冊のノートを手渡した。まるで本のようなそれは、机の引き出しから取り出されたものだ。
「君が毎日書いていた日記だよ。決して僕には見せてはくれなかった」
彼が話す事実を聞くよりは、わたし自身が書いたものを読む方が良いだろう、と。
そうすれば、記憶を取り戻すことができるかもしれない、と。
なぜなら、日記というのは、書いた人の人生や、それに伴うその人の気持ちが、綴られるものだから……
象牙色の布が張られたその日記帳を、わたしはしばし読んでみることにした。
<某月某日 晴れ>
「やぁ、調子はどうだい?何か思い出した?」
わたしはわたしの部屋で日記を読み続けていた。
毎日欠かさず、というわけでもないが、まめに書かれた日記の量は膨大であった。
古い日付のページから順にページを繰り、わたしは“わたし”という人物の人生や思考などを読んでいた。が、それは、どのページを読んでいても、わたしにとっては知らない人の人生録でしかなかった。
ただ、わたしはこの日記を読んでいくうちに、この日記を書いた“わたし”という人物について、知ることができた。
一向に、記憶のひとつも取り戻せずにいるわたしを、彼はただ穏やかに見守っている。時々わたしに会いに来ては、ふたりでお喋りをする。それは、記憶をなくす前のわたしのことだったり、あるいは他愛の無い世間話などであった。
彼のほかに、わたしが会話をする相手はいなかった。
この家には、わたしの知人も、彼の知人も、訪れてはこない。
わたしは、白いカーテンの向こうからやってくる、日の光とやわらかな風、それからドアの向こうからやってくる彼と、語り合った。
わたしは日記というひとつの物語であり人生録である読み物を読み解きながら、彼についてもいろいろと知るようになった。といっても、わたしがわずかに会話を交わした印象と、日記の中の“わたし”が語る彼というのは一致していて、印象も変わらない。彼は、“わたし”にとっての穏やかな恋人以外の何者でもなかった。
二階の奥の部屋から聞こえるピアノの音は、優しい音をしていた。
<某月某日 晴れ>
二階の奥から聞こえてくるピアノの音の正体が、CDコンポからの音色であることを知った。
「この部屋で、毎日ピアノを弾いていたんだよ。だから、この家には、いつもピアノの音が響いていた。それが無いと、なんとなく、淋しくてね」
だからCDをかけるのだと。彼はそう苦笑顔で教えてくれた。
二階の奥の部屋は、ピアノ室だった。
日差しの柔らかい室内には、グランドピアノが一台と、楽譜とCDとコンポが入った本棚がひとつあるだけ。本当にシンプルというか、簡素な部屋だ。でも、不思議と居心地は良い。
わたしは、手触りの良いピアノのカバーに触れ、その上に置いてあるメトロノームを眺め、椅子を引いて腰掛けた。
ここで“わたし”は毎日ピアノを弾いて過ごしていたのか。穏やかな恋人のそばで、ずっとピアノを弾いて過ごしていたのだろうか。
思いをはせてみたが、案の定そんな風景はわたしの記憶には無い。
わたしはピアノを弾く代わりに、スピーカーから流れる音楽に耳を傾けた。
有名なクラシック音楽だ。確かタイトルは――――……
<某月某日 晴れ時々曇り>
わたしは自分の部屋ではなく、ピアノ室で日記を読むようになった。彼がそうしても良いと言ってくれた。彼は同時に、わたしはこの家の住人なのだから、どこで何をしていても良いというようなことも言った。
ピアノ室にいると、わたしは随分と落ち着いた気持ちになることができた。
彼とわたしのふたりきりの生活は、勿論穏やかなものだったけれども、わたしはもとの“わたし”に戻ることができないような気がして、時々不安にかられた。けれどもピアノ室ではそんなことはなかった。
わたしは、ピアノ室で日記を読み、音楽を聴き、そして時々ピアノを鳴らした。
人差し指で鍵盤をひとつずつ押すだけで、拙いどころか音楽にもなりはしなかったが、今のわたしはピアノなんてものには初めて触ったのだから、演奏らしい演奏などできるはずもなかった。……彼の口ぶりからすると、以前の“わたし”は、毎日ピアノを弾いていたようだけれども。
わたしは日記を片手に、子供が遊んでいるような音を鳴らして、一日を過ごした。
日記の中には、沢山の音楽のタイトルや作曲者の名前が出てくる。きっと“わたし”は、ここに書かれた全ての曲を、このピアノで演奏していたのだろう。その演奏を、彼がずっと聴いていただろう。
そんなことを思いながら。
<某月某日 曇り>
ふと、曲を演奏したくなった。
わたしは、日記の中に書いてあるうちの一曲のCDを探し出し、それをデッキから流した。
CDはすぐに見つかった。
何度か聴いて、それからわたしは、聞こえたままに、鍵盤をなぞり、音を出した。
やはり“わたし”は毎日ピアノを弾いていたのだろう。音は、不思議なくらいスムーズに流れ、わたしはすぐに、CDがなくても一曲弾くことができるようになった。
それは、クラシックのうちのひとつで、作曲家の名前は小学生でも知っている有名人だけれども、曲自体は音楽をかじっている人しか知らないような、そんな曲。明るく軽快な曲調で、弾きながら心地よかった。
そんなピアノの音色を聞きつけて、慌ててやってきた彼は、随分と驚いた様子だった。
「君……、ピアノを弾けるのか?」
わたしは苦笑した。以前の“わたし”が弾けたのなら、今のわたしが弾けたところでおかしくはないはずだ。
わたしは、音楽というのは身体が覚えているものなのかもしれない、というふうな言葉を彼に返した。
それでも彼は釈然としない面持ちだった。
てっきり喜ぶと思っていたわたしは、彼の歯切れの悪い反応をいぶかしげに感じた。そこでわたしは彼に尋ねた。記憶が戻って欲しいのではなかったのか、と。
彼は困ったような顔をした。
彼は、わたしの誤解を指摘した。
「毎日ピアノを弾いていたのはこの僕だよ」
今度はわたしが驚かされた。
「君はピアノなんて弾かなくて、僕の演奏をずっと聴いていたんだ」
日記に書かれたピアノの話は、“わたし”自身のことではなかったのか。
……なら、今ピアノを弾いているのは、誰……?
<某月某日 曇りのち雨>
彼のピアノを聴いても、わたしは何も感じることはできなかった。
それどころか、この日わたしの頭の中がパニック状態に近かったのだ。
わたしはこの数日間、ずっと“わたし”が書いた日記を読んでいた。否、“わたし”が書いたと思われる日記のようなものを読み続けていた。
わたしは次第に気づき始めた。
この日記には、“わたし”に関することがひとつも書かれていないことに。
毎日のように書かれているピアノに関することは、全て彼のことだと分かった。
彼がどんな曲を弾き、それについてどんな悩みや困難にぶつかり、どう弾いていったのか……。
では“わたし”は何をしていたのだろう。
彼が弾くソナタを聴きながら、わたしは日記の中に“わたし”を探し求めることに必死になっていた。
<某月某日 雨>
わたしは、……一体誰なのだろう。
わたしは“わたし”が分からなくなっていた。そしてわたし自身も見失っていた。
わたしは、日記を読んでいれば“わたし”のことやわたしのことが分かるだろうと、そう漠然と思っていた。けれど。
日記を読めば読むほど、分からなくなってしまった。
わたしはこの日記の中に、“わたし”という自身が見つけるつもりだった。わたしは自分を探すためにこの日記を読み始めたのに。
わたしはわたしが分からなくなってしまった。わたしを見失ってしまった。
否、わたしは最初からわたしが何者であるかを知らなかった。
わたしは誰だ。
“わたし”は誰だ。
わたしは……………………………………
<某月某日 嵐>
わたしが誰なのか分からない。
“わたし”が誰なのか分からない。
日記の中にわたしはいない。
日記の中に“わたし”が見つからない。
どうしよう、もうわたしは日記を読み終えてしまう。
日記を読んでも書いた“わたし”のことが分からないだなんて。
嫌だ。わたしに“わたし”は分からない。
嫌だ。わたしにわたしは分からない。
どうして日記の中に“わたし”がいないの?
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
彼は一体誰を見て、誰の為にピアノを弾いていたのだろう。
彼はただ、優しい。
そして。
<某月某日 晴れ>
そして。
わたしは、日記を読み終えた。
end...?