進路(『チューリップと花言葉』空白の数日間、一)
「なに読んでるの?」
放課後の図書室で房藤空木 が青木和尚 に声をかけた。
「なにって、これだよ」
山積みにされた本のうち、一冊を空木に渡した。空木はまじまじとその本の表紙を眺めた。
「バイオテクノロジー?」
空木は辞書並みの本をぱらぱらとめくった。様々な数式、複雑な遺伝子の組織図。細かく、しかもぎっしり書かれてあり、いったいなにに関する書物なのかさっぱりわからなかった。
「全然わからない・・・・・・」
「見てわかったらお前天才」
苦笑する和尚。頬杖をついている様が、お前バカだなと言わんばかりだ。空木はぱたんと音を立てて本を閉め、和尚の前に置いた。
「どうせ私はバカですよ」
「バカじゃないって」
拗ねた空木を慰めるように、和尚が言葉をかけた。
「そういえば、和尚くんって理系だよね。専攻はやっぱりバイオ?」
「バイオ専攻してるね」
「遺伝子組み換えとか、興味あるんだ」
「まぁね。いずれはそういう方向に進みたいと思ってる」
「ということは、そういう大学に通って、そのまま院生になるってことだよね」
「そこまで進まないと研究も何もできないからね」
笑う和尚に、空木もつられて微笑んだ。
「房藤ってさ、青いチューリップって知ってるか?」
唐突に和尚が訊いてきた。空木は少々とまどったが、思い出せる範囲で答えた。
「確か、あるよね。青いチューリップ。前テレビでやってたよ」
「プルチュラ・アルボコエルレア・オクラータってやつだろ。でも、あれは完全な青いチューリップじゃないんだよ」
「嘘!」
思わず声をあげてしまった。はっと空木は周りを窺った。みんなが見ていた。
そそくさと和尚の隣に座る。
「・・・・・・完全じゃないってどういうことよ」
こそこそと訊いてくる空木を見て、和尚は笑いを押し殺して説明に入った。
「プルチュラは確かに青い。だけど、それは花びらの中心が青いだけで、周りは白だ。研究者が求めているのは花びら全体が青いやつなんだ。だから、真の青いチューリップはまだ完成されてないんだよ」
淡々とした説明に空木はふんふんと頷いた。
青いチューリップ。バラと共に長年研究されている。チューリップとバラは青い色を作る遺伝子を持っておらず、青い花びらというものは存在しなかった。青い花びらを作るために、研究者たちは最先端の遺伝子操作でそれを表現した。近年では、青いバラというものも発表されたが、完全な青ではなく、「青に近い色」として評価されていて、まだ研究中なのだそうだ。
「そうなんだ」
空木は感心する一方だった。和尚の知識に圧倒されるばかりだ。
「植物相手だから長い年月をかけないと結果って出てこないんだ。チューリップをタネから育てるとどれくらいで花付けるか知ってるか?」
「え? チューリップにもタネあるんだ」
「・・・・・・あるよ」
当たり前のことを訊いてくる空木に、和尚は乾いた笑いをする。だが、タネを知らないのも当たり前か、と思う。チューリップが開花してから数日で、花摘みというものが行われる。これは、種子を作らせないためと、球根に栄養を集中させるためだ。球根は、毎年同じ色の花を咲かせる。球根は親と同じ遺伝子をもっているので、一種のクローンということになる。
「タネから育てると最初の花が咲くまで五年かかるんだよ」
「そんなにかかるんだ」
「交配してタネを作って五年目でやっと結果がでるんだ。先代の交配結果が次の研究者に受け継がれていくんだ」
それだけ研究は歴史があって奥が深いんだ。と和尚は教えてくれた。
「長い年月をかけていいから、オレは青いチューリップを完成させたいんだ」
和尚の目が変わった。真剣だった。真剣だけど、どこか少年めいた冒険心のある瞳。キラキラと輝いて、空木は一瞬見とれてしまった。
「なんたって、賞金かかってるしな」
にっこり笑う和尚。拍子抜けしてしまった空木の身体がかくっと揺れた。
「賞金が目的ですか! かっこいいこといっといて、それはないんじゃない」
あくまでも声を潜めて言う。和尚はけろっとした表情を見せている。
「賞金目的でなにが悪い? いいじゃん。ほとんど研究費ですっ飛んでくんだから」
平然と言う和尚になにも言えない空木。ため息をついて、眉間に指を添えた。一瞬でもかっこいいと思ってしまったことを悔やんだ。ときめきを返せと心の中で訴えた。
「でもさ、青いチューリップが完成したらすごくね?」
また少年のような笑みを浮かべ、空木に訊いた。空木はそうだね、と頷く。
「世界中で青いチューリップ研究して、今まで誰も成功してないやつをつくっちまったらすごくね? 日本と原産国のオランダとが主に競い合ってるんだけど、日本が最初に完成させちゃったら面白いと思うんだ。日本の遺伝子操作技術もレベルが高い。絶対完成させてやるんだ。青いチューリップ」
楽しそうに将来のことを語る和尚。少年が夢を語るように、新鮮で明るい。不真面目に見られがちな和尚だが、自分が興味を持ったものはとことん調べ、知識を取り込んでいく。それが、和尚の魅力のひとつなのだろうか。空木はまだなにも将来のことなんて決めていない。自分より一歩先に進んでいる和尚。追いつこうとしてもまた先に行かれてしまう。そんな和尚が輝いて見えた。
「だから、家継がないって言ってたんだ」
家なんて継がない、と昼休み言っていたが、そういうことだったのかと今理解した。
「長男だから継がなきゃいけないんだろうけど、オレは自分の進みたいところに進みたいと思ってるんだ。家は、弟にでも継がせるさ」
お寺の息子であるから、家を継ぐのは長男だ。古い家の仕来りと言ってもいいだろう。
「家族がなんて言うかな・・・・・・。ま、勘当されてもやるつもりだからいっか」
けろっとしているが、内容はかなりのものだ。家族の縁を切ってでも研究を続けたいという和尚の意志は固かった。
そんなに簡単にすませてしまっていいのだろうか。空木は和尚の身が心配になってきた。じっと和尚の顔をみていたせいだろうか。和尚が少し疑問を持った表情になる。
「なんて顔してんだよ。房藤が心配することじゃないんだぞ」
うっすら微笑んで空木の頭を軽く撫でた。
「ありがとう」
空木の顔が急に熱くなった。和尚の一言が空木の心を揺るがせた。ざわっと身体に波が生じ、硬直する。和尚の一言一言が全身に染み渡るのがわかる。
「なんで、そういうかな」
「なんとなく。ただ言いたかっただけ」
撫でながら和尚は言う。感謝される覚えはない。何で和尚が言ったのか見当がつかない。
「――身長縮むよ」
「縮めてやるよ。まかせとけ」
「しなくていいから」
しなくていいと言っていながら、撫でるのをやめてほしくないと思っている自分がいる。なんで、そう思ってしまうのだろう。空木は頭を抱えたくなってきた。
「青いチューリップが完成したら、誰よりも先に房藤に見せてやるよ」
和尚の一言に空木ははっと顔を上げた。なにを言っているのだとも思ったが、嬉しいと思う気持ちが強かった。
「ほんと?」
「あぁ。ほんとだ」
「・・・・・・でも、完成まで何年かかるかわからないじゃん」
「完成するまで待ってて欲しいんだけど」
にっこり笑われた。その笑顔が眩しくて、自分でも、その魅力に惹かれているのがわかった。空木はうっすら微笑むと頭に載っている和尚の手をどけた。
「しょうがない。待っててあげよう」
「そういってくれるとほんとありがたいや」
いつになるかわからない。完成するかもわからない。だが、空木は待つことにした。和尚が生みだす一本の花を。
何年でも、何十年でも――。
空木の心臓がちくんと小さく痛んだ――。
空白の数日間一、終