90.過ぎ去りし日
エメラルドグリーンに煌めく海原に、影を落とす大きな物体。
それは命綱とも呼べる無数のプロペラを付け、止まる事なく回り続けている。つぎはぎのようにつなぎ止められた鋼鉄はその外見とは裏腹に決して分裂する事なく頑丈に造られている。
鉄のかたまりを思わせるようなその巨大で圧倒的な存在は、空を飛ぶ大きな船。
鉄のお椀のような形をしているその船には、幾千人もの人びとが住むヨーロッパ風潮の町が存在し、人々の賑わう声が木霊する。
地上はすでに温暖化によって海水の水嵩が増し、数千年前に存在していたと言われている大陸は海の底へ沈んでしまった。
人々は長い時間をかけて空中飛行と言う生活手段を生み出し、船から船へと町を渡り、移動する。
またこの時代、現代の環境へと対応出来るよう人間も日々進化を遂げていった。そして数百年前からその姿を現し始めた人間から進化した新たなる種族・・・。
人はこの種族をこう呼ぶ。
「飛行人」と・・・。
彼らは外見こそ人間そのものであったが、明らかにそれとは異なるのが、その背から生える2枚の大きな羽根。
その羽根は鳥の如く、羽毛に包まれた真っ白な羽根で、空を舞うその姿は、本の物語に出てくる美しき天使のようであった。
私はその飛行人の空を舞う姿を見ながら、穏やかな風の吹くレンガ造りの時計台の上でその様子を眺めていた。
空を舞う彼らのその姿は風そのものである。
眼前には平行線が広がるエメラルドグリーンの海原。
その美しき海の底には、遥か昔、我々人類が住んでいたと思われる、古代都市が時を止めたまま眠っているのだろう・・・。
そんなことをぼんやりと考えていると、ふと、ひとりの飛行人がこちらの存在へ気づき、私の元へと舞い降りてきた。
美しき姿を持つ彼女は飛行人の特徴をしっかりと受け継いでいる。
この種族は大変に気高く、そして美しく、なによりも情に溢れている。
その昔、大陸というものがまだこの海の上に存在していた時代、何処の国でも日々争いが絶えなかったという。
毎日毎日、同族同士が互いを憎み、蔑み、争い、時には命を奪い、奪い返され、欲にまみれ、それが人を狂わし、同族が苦しみ合う・・・。
飛行人はそんな人間から進化を遂げた、最高の境涯を持つ、最高の種族である。
そんな彼女は私に微笑むと、すらりとした腕を伸ばし、太陽にまっすぐ指差す。
日がもうすぐ沈む。早く町へお帰り。
と、優しく微笑んだ。
私は、絶景を見渡せるこの時計台からの景色を名残惜しく思いつつも、彼女の言葉に従うと、ゆっくりと腰を上げた。
そして、彼女に手を振ると、オレンジ色に輝く美しい夕日を眺め、時計台に背を向けて、町へと走る。
もうすぐ夜が訪れるのだ。
彼女は私を見守るように、いつまでも走るその背を見つめ続け、ようやくその姿が視界から消えると、やがて自分も帰るべき場所へと飛び立っていった。
もうすぐ夜が来る。
町の明かりはすっかり灯が上がり、その彩りはやがて、幻想的な夜の町へと変化する。
大陸が沈んだその日、命を持つものが夢の中へと誘われたその刻、大陸はゆっくりとそのものを夢の中へと誘ったまま、姿を消したと言う。
町の明かりは、幻想的な彩りに包まれる。
それは、大陸に眠っているものたちを安らかな世界へと誘う、そんな意味合いから生まれた、何千年も前からの古き風習・・・。